最高の最期。


病気で何ヶ月も苦しみ続けたり 
事故で痛がりながら何十時間も過ごしたり 
火の中、がれきの下でじわじわ死んでいったり
そんな死に方ではなくて、
前日まで晩酌をし 
朝はいつもの様に起きて 
数時間後に突然 あっけなく息を引き取った
それは多分 本人にとっても そして何より 残された人間にとっても 一番幸せな最期なのだとおもいました。
遺体の顔はそれこそ本当に ただ寝ているだけのような ちょっと声をかけたらムクッと起き上がりそうな そんなとっても綺麗な顔でした。
私が子供の頃 年に二回 お正月と夏休みに会いにいくと 決まって吸っていたのは「わかば」でした。
歳を重ねるごとに 会いに行く頻度はめっきり減り 最後に会ったのは多分五年も前です。
生きているうちにもっと会っておけば良かった という思いが全くありません。
自分が感情のない人間なのかと考えてみましたが 私の中にしっかりと流れているその人の血を強く感じているから 会う頻度なんか関係ないんだということがわかりました。
母方の祖父が死んだのは10年前です。
父方の祖父が死んだのは数日前です。
母方の祖父には頻繁に会っていましたが 私は祖父の吸っていた煙草を知りません。
なのにほとんど会わなかった父方の祖父が吸っていた煙草は いつ 誰に聞かれたとしても自信を持って答えられます。
この歳になって思うのは 私の中に流れているのは 豪雪で土くさくて いつも汚れているド田舎の血です。
この数日間、
農作業用の長靴を履きました。
手ぬぐいでほっかむりをしました。
リヤカーで木材を運びました。
薪を燃やしました。
雪の中 外でタバコを吸いました。
獣道を犬と散歩しました。
通夜で泣きました。
通夜の後に笑いました。
火葬場で泣きました。
顔の横に入れた眼鏡を もうただのドロドロの固まりになってしまっていたけれど持ち帰りました。
告別式で泣きました。
告別式には信じられないくらいたくさんの人が来ました。
スライドには まだ小学校低学年の私が映っていました。
遺影は イチゴ畑の中に飾られ イチゴを作り続けたじいちゃんらしい 素敵な告別式でした。

普段の日々では過呼吸に苦しんでいますが ド田舎でそんな生活をしていたこの数日 気付いたら過呼吸なんて起こしていませんでした。
普段の日々がバカらしく思えました。
私が本当に必要としているものは 私の普段の生活の中にはないんだということがわかりました。
多分じいちゃんが教えてくれました。

しばらく悩んで買ったDVDも服もバッグも化粧品もなにもかも 本当の私には必要ありませんでした。
私は明後日から普段の自分に戻らなくてはなりません。
でも確実に 自分の中身が変わりました。
普段の自分は本当の自分じゃないことがはっきりわかったからです。